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チェルフィッチュ「ゾウガメのソニックライフ」2011.3.5 14:00

先月のKAATでの公演がすごく心地よく感じられ、それが不思議だったのでどうしてももう一回観たくなってキラリ☆ふじみまで行くことにしました。いつもチェルフィッチュはどうにもついていけなかったのに。すごく分かりやすく思えたのはどうしてだったんだろう。

先週のデスロックに続いてのキラリだから同じ電車に乗ればいいな、と家を出たけど、先週とは時刻表が変わってました。そうか、3月って時刻表改正の季節。

ある男女がそれぞれの頭の中の秘密を独白。思考はどんどん広がっていって…。

ものすごく混沌としたぐちゃぐちゃの脳内世界。考えている身体と言葉を発する身体を分けているため、思考が外にダダ漏れしている感じ。誰かの頭の中が拡大されて舞台にのっかってる。始まったとたんにパッと空間が宇宙のように広がり、人の脳内を俯瞰しているような、不安定だけど気持ちいいユラユラ浮かんでいるような感覚に襲われました。

一方で自分の脳内にこの俳優たちが入り込んで、中に詰まっている私の妄想が暴き出されているような、変な恥ずかしさも。

考える身体と言葉を発する身体が別々っていうシステム自体がずいぶん私にはすんなりと受け入れることができ、だからわかりやすく思えてそこからいろいろと想像が広がっていった気がします。

考える身体と言葉を発する身体が違うと、そういう仕組みを頭で理解していても感覚は混乱し、これはいったい誰の思考なのか?もしかしたら私かも?となっちゃうんです。

そうなってくると舞台上でのセリフは私の思考、観ながら私が考えていることは舞台上で起きていること、っていうような自分と舞台上が融合するというのか、逆転するというのか、神様として世界を俯瞰しつつ、小人になって人の脳内を冒険している、っていう、ミクロとマクロを同時に体験。

そうなると言葉は音楽のように流れ、あまり意味を持たなくなり、私は心地よく妄想を広げていき、その中にどっぷりと浸る。

劇中の言葉を借りるなら、「居眠りとぼんやりの間の状態」。そういう状態だと本当に妄想の翼は留まるところを知らず、沈黙の時間が楽しくってたまらない。いろいろな台詞や設定が私の頭の中であてられ、シーンはぐるぐる回り物語が作られ進んでいく。だから沈黙の場面が終了するのが残念に思えるほど。

チェルフィッチュの看板俳優の山縣太一さん。身体の形や動きのインパクトが強すぎてどこにいてもそこにいつも圧倒されていたのですが、今回映像で顔だけ出ている場面があり、目線だけでここまですごいのか、と驚きました。舞台上で映像をとり、そのアップを同時にプロジェクターで映し出しているんですが、生身の身体もきっちり動きを出さず、顔だけで演技する様子がいい。

この、撮られている身体と、その映像が同時に舞台上に配置される演出もすごく妄想に役立ち、おもしろかったです。生の身体がここにあるのに、誰もそれに目を向けずスクリーンに見入る、っていう構図。

終わり方がまた鮮やかすぎてあっけにとられます。パソコンのディスプレイの中からパソコンに向かって作業する人を眺めているという態。そこまでの自分の観かたが肯定されたような設定に安心し、小人気分と神様気分を味わっていたら、ひゃっと不意打ち。うわぁ。

あぁ、こうやって思い返すとまた観たくなっちゃうな。ほんと楽しかった。

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